アダム・スミスの『道徳感情論』(村井章子・北川知子訳、日経BP社、2014年)をようやく読み終えた。700頁を優に超える分厚い本を、行ったり来たりしながら、通して2回読んだ。読み始めたのが今年の2月中旬だから、およそ4ヶ月以上かかったことになる。この「読書ノート」では、素人なりに理解した『道徳感情論』の内容をまとめてみたい。もっとも、堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書、2008年)-簡潔でありならが、要領を得た、秀逸なスミス論である-があったからこそたどりつけたというのが本当のところである。自分なりの理解を述べるだけではなく、その上で、この大著から学んだことを示そうと思う。実は、本書には、日々を平穏に生きていくための教訓が散りばめられているように感じたのだ。連帯社会の構想にとっても役立つ教訓もある。
この小文は労働調査屋である私の「読書ノート」であって、まあ、子供の「読書感想文」程度のできにすぎない。それでも書いてみたい。
こんなことを書くのは本当に恥ずかしいのだが、私は、この大著の目的をなかなか理解できなかった。後述するように共感(sympathy)、感謝(gratitude)、憤慨(resentment)等の個々の概念は理解できたのだけれども、そもそも、何のためにスミスはこの本を書いたのかがよくわからなかった。もちろん、堂目(2008)が「『道徳感情論』の主な目的は、社会秩序を導く人間本性は何かを明らかにすること」であり、「社会秩序を基礎づける原理・・・は感情に基づくとスミスは考える」(p.25、p26)と述べ、猪木武徳『経済社会の学び方』(中央公論新社、2021年)が「そもそもわれわれが研究対象とする人間社会は、どのような原理で成り立っているのだろう。人間社会の成立やその秩序の起源として、近代の社会思想は大まかに分けると二つの考え方があった」として、その一つが「ヒュームやアダム・スミスなどが想定した『人間の感情の一致が社会の安定的秩序をもたらす』との見方である」(p.230)と論じていることは知っている。だが、本書で、そう明示的に指摘した文章に出遭うことはなかなかなかった。
第7部「道徳哲学の学説について」の第3篇「是認の原理に関するさまざまな学説について」を読み返しているうちに、おぼろげながら、本書の目的を理解できたような気がした。次のようである。是認(approbation)の原理、つまり「ある性格を快くあるいは不快に感じ、ある傾向の行動を他の傾向の行動より好み、一方を正しく他方を誤りとし、一方を是認、尊敬、報償の対象とみなして他方を非難、制裁、懲罰の対象とみなす」(p.655)ことに関して社会の構成員の間に一定の合意が形成されること、これが「社会秩序が形成される」ことにほかならない。
是認の原理をもたらす人間の本性としては、これまで「三通りの説明がなされてきた」(p.655)。利己心、理性そして感情である。「・・私たちはもっぱら利己心から是認の可否を決めるという。言い換えれば、ある行為が自らに幸福をもたらしうるか不利益をもたらしうるかという観点から、是認するかしないかを決める」(p.655)。次に理性。「すなわち真偽を見分けるのと同じ能力によって、行為や情念が是認に値するか否かを見分ける」(pp.655-656)。最後が感情である。「この区別はひとえに直接的な感情と気分に影響されるのであって、何らかの行為や情念を目にしたときの満足感または嫌悪感によって決まる」(p.656)。
スミスは利己心、理性によって是認の原理がもたらされるという学説を批判した上で、結局は「是認は感情に基づく」(p.669)。その証明こそが本書の内容に他ならない。そう考えることによって、本書の目的が見えてきた。
この本は論理を追っていくというよりも、スミスの文章に対する自分なりの反応を確かめながら、スミスを理解しようと努めるという姿勢で読むことが適切であると思う。以下は、私の理解した範囲での「道徳感情論」である。
人間は自分のことを第一に考えるけれども、他者の感情や行為にも関心を寄せる。公園で小さな子どもと遊んでいるパパの嬉しそうな表情と仕草を見て、二人とはまったく関係ないのに、自分も幸せな気分になる。大学入試の合格発表の場で、下を向き目に涙を浮かべながら、嗚咽をこらえている受験生を見ると、かわいそうにとこちらも涙目になってくる。パパの嬉しさや受験生の悲しさの原因を推測できるから、同じような感情を抱く。もちろん、本人たちと同じ程度に幸せや悲しみを感じたりするわけではない。こうした心の動きをスミスは共感(sympathy)と呼ぶ。
同じような光景であっても、幸せや悲しみを感じないこともある。自分の子どもがやり放題で他の子どもたちが嫌がっているのに、自分の子どもだけを見て嬉しそうにしているパパには、怒りがこみあげてくるだけである。合格者を睨みつけながら、くやしくてたまらないという顔をしている受験生の悲しみには共感できない。共感は一筋縄ではいかない。
今度は立場を変えて、自分がある感情を抱いたときのことを思い浮かべよう。3歳になったばかりの初孫と一緒に公園で遊ぶ。よちよち歩きだし、言葉もよく聞き取れない。でも孫は楽しそうにしていて、こちらを見て笑っている。思わず、私も笑みを浮かべ、幸せをかみしめる。もしその時、見知らぬ人が「かわいいお孫さんですね、おじいちゃんも幸せそう」と笑って話しかけてくれたら、つまり私の幸せに共感を示してくれたら、より一層、嬉しくなる。高齢者マラソンに出場し、完走するために、日々、トレーニングをしていたのに、不注意で足をねんざし出場できなくなった。泣きたいけれど、誰のせいでもない自分の不注意が原因だから、じっと我慢するしかない。そんな落ち込んでいる私に「残念でしたね、でもトレーニングは無駄にはならないし、次もありますよ」と心の底から慰めてくれたら、つまり私の悲しみに共感してくれたら、「そうだ、くじけないで、前を向こう」と元気づけられる。自分の喜びや悲しみに他人が共感してくれるのを見たり、感じたりすることは、心地よいものである。
人びとが抱く感情を評価、判断する場面は次の二つに分けて考えることができる。一つは、喜んだり、悲しんだりしている当事者の感情それ自体を、それを引き起こした対象や原因との関係で評価する場面である。もう一つは、堂目(2008)がわかりやすく例示するように(pp.40-41)、行為者と行為を受ける人という二人の当事者を見ながら、行為者の動機(感情)と行為を受ける人が抱く感情を、ともに評価する場面である。評価するのはこの二人を観察している第三者である。
一つめは、すぐ上でみたように、公園で子どもと遊ぶパパの仕草や感情、大学入試の合格発表の場で目に涙を浮かべている受験生の感情や行いを見て、それらがその対象や原因(かわいい子どもや受験に失敗)に見合ったものかどうかを判断するという場面である。パパや受験生の感情が、原因や対象との関係からみて、適切(propriety)であるとして是認し(approve)、共感する。わがままな子どもをいさめることなく、ただただ嬉しがっているパパや、悲しみにたえきれず合格者をねめつけている受験生の感情は適切であるとは判断せずに否認し(disapprove)、したがって共感を呼び起こさない。
二つめは、これまでには出てきていないシチュエーションなので、説明が必要だろう。私は大学では不真面目な劣等生で、就職活動も真剣には行わなかったからよくわからないが、90年代のいわゆる「就職氷河期」に大学を卒業した当時の若者たちは、よい就職先を見つけるのに苦労したことだろう。そんなとき、所属する同好会の先輩がいろいろ就職の面倒を見てくれたとしたら、後輩は先輩の思いやりに深く感謝するだろう。先輩の慈愛、思いやりと後輩の感謝を、第三者が観察してどう判断するか。いずれも適切であると評価すれば、この二人の動機、感情に共感するだろう。まったくの第三者であっても、である。これがポイントである。同じようなことは、フードバンクに食糧を寄贈する人と、それを受け取る子ども食堂の運営者、さらには子ども食堂の小さな利用者に対して、第三者が抱く共感にもあてはまる。
以上の例は行為を受けた者が感謝(gratitude)するが、逆に憤慨(resentment)するシチュエーションもある。私は騙されたことはないが、高齢者をターゲットにした「振り込め詐欺」がなくならない。老いた父や母の愛情をもてあそび、大切に貯めた金をだまし取るけしからん奴らである。奴らは額に汗することなく遊興のための金を手に入れるために、高齢者をだます。大金をだまし取られたとわかった高齢者が憤る(resentment)のももっともである。けしからん奴らのうすぎたない動機と、だまされた高齢者の憤慨を、第三者が観察してどう判断するか。動機には共感せず、憤激には同調し、その憤慨は適切であると判断しよう。
もっとも、小金持ちの高齢者が金融機関の担当者に勧められ、自分で納得した上で購入した投資信託が元本割れになり、担当者に怒鳴り込んだとしても、その憤慨には共感できない。アドバイスにしたがって決断したのは自分自身なのだから、担当者をののしるのは筋違いである。
いったい誰が感情や行為を適切(propriety)だと判断するのか、そしてその基準はなにか。「他人の感情を判断するに当たっては、自分自身がその原因に応じてどう感じるかということ以外には、活用しうる基準や尺度はまずあるまい」(p.78)。公園で子どもと遊ぶパパ、合格発表で悲しむ受験生の表情や仕草を見て私がどう感じるか、これが出発点である。観察している私は、もし自分がパパや受験生の立場だったら、どう感じ、どう行動するかを想像する。これらの観察や想像を経たうえで、彼らの感情や行いが適切であるかどうかを判断し、適切であると思えば彼らに共感する。もちろん、前述したように、共感できないシチュエーションもある。
それだけではない。私が他人の感情や行いを評価するように、他人も私を評価する。公園で初孫と遊ぶ私の喜び、高齢者マラソンに出場できなくなった私の悲しみを観察し、評価する他人がいる。他人が自分の喜びや悲しみに共感してくれるのを見たり、感じたりするのは心が和む。そのためには、観察者が共感できるほどに感情を抑え、行いも慎む方がよい。はしゃぎすぎたり、大げさに泣いたりすれば、共感を得ることは難しい。こうした心の動きもまた、判断基準をつくりあげることになる。
以上のような他人とのやりとりを通じて、自分の心の中に「公平な観察者」(impartial spectator)を創り上げていく。「公正な観察者」が他人の感情や行い、自分の感情や行いを適切かどうかを是認あるいは否認し、共感できるかどうかを判断する。「公正な観察者」とはいったいどんな存在なのかに関して、正直に言って迷ったし、今なお迷っている。誰もが同じような「公正な観察者」を創り上げるとは考えられないし、公正さが誰にとっても全く同じだとも考えられない。
堂目(2008)は、スミスが「公正な観察者」について「彼は、非常に公平で公正な人物であり、自分に対しても、自分の行動によって利害を受ける他の人びとに対しても、特別な関係を何ももたない人物である。彼は、彼らにとっても自分にとっても、父でも兄弟でも友人でもなく、単に人間一般、中立的な観察者であり、われわれの行動を、われわれが他の人びとの行動を見る場合と同じように、利害関心なしに考察する存在である」と論じていると引用している(p.33)。だが、スミスはこの文章を第6版では削除していると脚注で追記している(p.67)。したがって、私は目にしていない。
私は、普通の人間が、この文章でみるような「人間一般に対する中立的な観察者」を心の中で創造できるとは思わない。せいぜい、利己的な自分を冷ややかにみて、客観的であろうとし、他人に対してはできるだけ寄り添って、その人なりの感情や行いを正しく理解しようと努める「公正な観察者」を思い浮べるだけである。適切さの基準も、他人とのやりとりや世間相場から、学んでいく。したがって、個々人が創り上げる「公正な観察者」はそれぞれに異なる。ただ、重要な部分で、評価、判断が重なってくる。そのような姿を思い浮べている。スミスの言う「公正な観察者」がこれにあてはまるのかどうかわからない。ただ、第6版でスミスが上述の定義を削除したことを重く受け止めるべきだと思う。
先に、感情を評価、判断する場面を二つに分けて考えることができると書いた。二番目のシチュエーション、つまり行為者と行為を受ける人という二人の当事者が登場する場面について、さらに論じていこう。実は、社会秩序の形成にとって、決定的に重要な役割を担うのは、この場面での感情、共感なのである。
就職氷河期において後輩の就職活動を支援する同好会の先輩、フードバンクに食糧を積極的に寄贈する人は、慈愛、親切、愛情などの情念(passion)にかられ、正しい動機にもとづいて正しい行い(善行)を行う。そして、苦しむ後輩や子ども食堂の運営者や小さな利用者は心から感謝(gratitude)する。こうしたシチュエーションを目の当たりにして、私の心の中の「公正な観察者」は適切だと是認し、私は彼らの動機や感情に共感する。そしてこれらの善行は称賛(praise)される。
他方、高齢者をだますけしからん奴らは、独りよがりの欲望を満たすという不純な動機にもとづいて、悪行を行う。だまされた高齢者は当然のごとく憤慨(resentment)する。私の心の「公正な観察者」は動機を否認し、高齢者の憤慨には心から同情する。悪行は「正義にもとる行い」である。ここで正義とは、少なくとも、「生命と身体、財産と所有物、尊厳を守ることであり、約束を守ることである」。そして、この悪行は非難(blame)される。もっとも、投資信託の元本割れを嘆く高齢者の憤慨には共感できず、したがって、金融機関の担当者の行為を非難することもない。
第三者の称賛や非難は、本来ならば、行為者の動機(感情)に対してなされるはずであろう。後輩の就職活動を支援しようと考えた同好会の先輩、貧しい子どもたちを助けるためにフードバンクに食糧を寄贈しようとする人びとの慈愛、思いやり、愛情は称賛の対象であり、他方、高齢者をだまして金を奪いとろうとするやつらの欲望は非難の対象である。
だが、行為者の思いが実際に実現するかどうかはわからない。結果は運(fortune)に左右される。就職氷河期での求人は予想をはるかに超えて少なく、先輩が友人、知人にいくら声をかけてもよい返事が返ってこない。先輩の善意は空回りに終わり、結局、後輩によい就職先を見つけてあげることはできなかった。フードバンクに寄贈した食糧は、他の寄贈者のものとほとんど重複し、フードバンクの運営者はもてあまし、子ども食堂の運営者もその一部を受け取っただけであった。運が悪かったのである。こうした状況では、後輩や、子ども食堂の運営者、小さな利用者が抱く感謝はさほどではなくなる。他方、高齢者をだまそうとした奴らは、手口が稚拙で、すぐに見破られた。したがって、高齢者は損害をこうむることはなく、憤慨することもなかった。高齢者にすれば運が良かったのである。
こうしたケースでは称賛も非難もされないだろう。動機は良かった(あるいは悪かった)が、運が悪く(あるいは良く)、予想された結果は生じなかった。
他方、行為者が意図していないのに、称賛あるいは非難されるケースもある。就職氷河期であったにもかかわらず、知り合いから良い学生を紹介してくれないかとたまたま頼まれた先輩が、所属していた同好会の後輩の一人に声をかける。望んでいた業種だったこともあって、彼女はその話にすぐに飛びつき、内定をもらえた。運が良かったのである。彼女は、希望する会社を紹介してくれた先輩にいたく感謝するだろう。高齢者マラソン出場のためにトレーニングをしていたところ、よろよろ走っていた自転車にぶつかりそうになった。私はとっさによけ無事だったが、自転車に乗っていた老婦人は倒れ、怪我をおった。私の不注意であると言われてもしょうがない。彼女も事故の目撃者も私を非難するだろう。
このように、称賛や非難は行為者の動機ではなく、結果に左右される。これが現実である。身も蓋もないように感じるが、称賛や非難が運に左右されることの意義をスミスは次のように解説する。
意図しただけで称賛や非難が生じるのであれば、行為者の心の動きそのものが評価されることになる。就職の世話やフードバンクへの協力を意図するだけで、称賛される。結果はついてこなくても。高齢者をだまして金を奪おうと考えただけで非難される。実際には思っただけであっても。個々人の心が人びとに評価され、場合によっては糾弾される。こういう社会は善い社会とは言えない。心の自由が奪われているからである。スミスの言葉を借りれば「人は計画や意図ではなく行為によってのみ罰を受ける」(p.263)。
他方、良い動機は結果をもたらさなかったら称賛されることはない。そのため、予想した結果が生じるよう努力する。逆に、不注意が非難を招かないよう努力する。先輩は自分のネットワークを最大限活用して、良い就職先を探そうとし、フードバンクへの寄贈者は子ども食堂が欲しがるような食材を考える。私はトレーニング中は常に前後左右を注意するようになる。
これまで、私が他人の感情や行いをどう評価するか、あるいは私の感情や行いを他人がどう評価するかを頭に浮かべながら論じてきた。ここでは私の感情、行為を私自身が評価し、判断することを論じよう。
「自分の行動を自ずと是認するとき、しないときの原理は、他人の行動について判断を下すときの原理とまったく同じだと思われる」(p.271)。
「他人の行動については、その人の事情を十分に知ったとき、その行動を促した感情や動機に全面的に共感できるかできないかによって、是認するかしないかを判断する。同様に自分自身の行動については、自分を他人の立場に置いてみて、言うなれば他人の目でもって他人の立場から自分の行動を眺めてみて、その行動を支配した感情や動機に全面的に共感できるかできないかによって、是認するかしないかを判断する」pp.271-272。
他人とは、自らの心の中に創り上げた「公正な観察者」に他ならない。だからこそ次の文章が続く。「自分を中立な観察者の立場に置いてみたときに、自分の行動を支配した情念と動機に全面的に感情移入できるなら、想像上の中立な裁判官による是認に同意し、その行動を是認する。反対の場合には、中立な裁判官による是認の拒否に同意し、その行動は是認しない」(p.272)。
他人の感情や行いを判断しながら、そして他人が自分の感情や行いを判断することを思い浮べながら自分で創り上げた「公正な観察者」の目が今度は自分自身に向けられる。「公正な観察者」は自分の感情、動機を正しく理解できるのだから、称賛や非難は結果にとらわれることはない。だから、自分の他者に対するある行為が称賛に値すると感じられた場合、実際に感謝されることなく、称賛されなかったとしても、心は確実に慰められる。たまたま、他者に利益を与えるようなことになって感謝されたとしても、「公正な観察者」は認めない。いわれのない非難を受けた場合であっても、「公正な観察者」は、そうした非難は不当であるとなぐさめてくれる。とはいえ、ときと場合によっては「外の人の猛烈な攻撃に・・驚きうろたえてしまう」(p.304)こともある。自分が非難を浴びるような卑しい人間だと思われていると想像するだけで意気消沈してしまうのである。
同好会の後輩の就職活動に懸命に努力した先輩は、自分自身がどんなに頑張ったかを知っており、彼の心の中の「公正な観察者」は「きみはよくやった。その努力を私は十分知っている。ただ、運が悪く、結果が伴わなかっただけだ」と慰めてくれる。たまたま良い学生を紹介してくれと言われて、同好会の後輩の一人の名前と連絡先を教えてだけの先輩は、後輩の心よりの感謝がまばゆく、心の中の「公正な観察者」は「思いあがらないほうがいいよ」と諭してくれる。自転車に乗っている老婦人がよろよろしていたのが原因であることを私は知っているが、しかし、怪我をしたのは彼女の方で、私はかすり傷もない。周囲から見れば悪いのは私になる。私の「公正な観察者」は「あなたは悪くない。悪いのは老婦人だ」と労わってくれる。
私が他者に対してある感情をもち、ある行為をした結果、他者の心の中に感謝あるいは憤慨という反応を引き起こす。そうした反応を引き起こさないこともある。自身の動機と他者の反応を判断し、称賛あるいは非難を自分自身になげかける。こう前節で論じた。
こうしたシチュエーションとは関係なく、他者に影響を及ぼすことがある。人間が持っている利己的な情念が、意図せずに他者になんらかの結果をもたらす場合である。良い就職先を偶然、紹介したとか、よろよろした自転車と偶然、ぶつかりそうになったとかの場合ではなく。スミスは次のように論じている。「・・人間の本性にねざす生来の利己的な情念にとっては、自分自身の些細な利害は特に関係のない他人の重大な利害よりずっと重要であり、はるかに強い喜びまたは悲しみをかき立て、熱烈な願望または嫌悪感をもようさせる。自分の立場から見る限り、他人の利害など、自分のそれと比べたら物の数にも入らない」(p.311)。だが、「他人の幸福や不幸が、なんらかの点で自分の行動に懸かっている場合には、利己心の命ずるがままに大勢の利害より自分の利害を優先する、といったことは敢えてしないものである」(p.315)。
東日本大震災の被災地で、何とか無事だったコンビニに多くの人びとがトイレットペーパやティッシュを買いに押し寄せた。その際、一人一ロール、一箱という条件は自然と生まれた。大好きなもみじ饅頭の詰め合わせを一箱もらった時、我慢して一つだけ食べることにして、あとは子ども食堂に持っていく。トレーニング・ジムで大人気のマシンは、一人15分という制限がいつの間にか作られている。
利己的な情念がそのまま作動することをストップするのは誰か。「彼我の相反する利害を正しく比較するためには、私たちは立場を変える必要がある。自分の立場から見てもいけないし、相手の立場から見てもいけない。・・どちらとも特別の関係がなく中立な判断のできる第三者の立場から、第三者の目で見なければいけないのである」(p.312)。それができるのは言うまでもなく「公正な観察者」しかいない。「公正な観察者」は「・・おまえは大勢のうちの一人に過ぎず、どの点をとっても他人よりすぐれているとは言えないのだと、他人より自分を優先するようなもの知らずの恥ずかしいふるまいをするなら、怒りや憎しみや呪いの対象となって当然なのだと、注意してくれる」(p.314)。「自分自身も自分に関係のあることもすべてとるに足らないのだと学べるのも、放っておくと利己心が犯しやすい偽りを正せるのも、この中立な観察者がいればこそである」(p.314)。
私の感情、行為を評価し、利己的情念の暴走にブレーキをかける「公正な観察者」を他者とのやりとり、自省を通じて創り上げていく。そして「公正な観察者」の目を通して「他人の行状を絶えず観察することによって、知らず知らずのうちに、何をするのが妥当で適切か、何はすべきでないかについて、何らかの原則(general rules)を自ら決めるようになる」(p.352)。
この一般的規則は二種類からなる。一つは「自分を憎悪や軽蔑など不愉快な感情の対象にしてしまうような行動、あるいは懲罰の対象にしてしまうような行動は、どれも絶対にしないという原則を自ら定める」(p.352)。そうした行動は、第5節で述べた「悪行」であり、「正義にもとる行い」である。正義(justice)とは少なくとも「生命と身体、財産と所有物、尊厳を守ることであり、約束を守ることである」。この正義は絶対守らなければならない。「正義は、構造物全体を支える基柱である。これが外されてしまったら、人間社会という構造物・・・は、瞬時に瓦解してしまうだろう。そこで自然は正義の遵守を強制するために、これを侵したら報いを受けるという意識、相応の罰が待ち受けているという恐怖を人間の心に植え付けた。これが人間社会の頑丈な防波堤となり、弱者を守り、暴力を食い止め、罪を懲らしめる役割を果たしている。」(p.223)。
もう一つの規則は「好意、感謝、称賛の気持ち」を引き起こすような「好ましい行動をする機会は自ら求めなければならない、というもう一つの原則」(p.352、p.353)である。こうした行動は第5節で論じた「善行」である。善行(beneficence)は感謝の対象として是認でき、称賛されるものである。ただ、善行は強制できるものではなく、個々人の自由意志に委ねられる。「善行をしないからといって罰を科されることはない」(pp.205-206)。だからこそ、スミスは「しなければならない」ではなく、その機会を「自ら求めなければならない」と述べたのである。
この二種類の一般的規則を考えにいれながら行動をしていくべきだとの感覚、「義務の感覚」(the sense of duty)が私たちの中に根付くようになる。
一般的規則、義務の感覚が社会の構成員に共有されることによって、社会秩序が形成される。「是認は感情に基づく」(p.669)とは以上のことだと思われる。
私は、この本を読みながらいろいろなことを学んだ。その一つが「公正な観察者」である。周りの人びとの感情や行動、自分自身の感情や行動を、「公正な観察者」の目で見たらどう映るだろうかと考えるようになった。おそらく、これまでも不十分でいい加減な「公正な観察者」の目で見ていたと思うが、それを自覚的に行うようになった。だからといって、私自身が良い人間になったというわけではないけれども。
二つめは、情念(passion)の種類によって共感の程度が異なるということである。空腹、苦痛など身体的欲求に起因する情念には同調されず、嫌悪感を抱かれる。したがって、この情念をうまく抑える必要がある(節制)。憎しみや怒りなどの敵対的情念は、おだやかに抑えられていない限り、感情移入できないし、適切さを判断できない。抑制した憎しみ、怒りが必要となる。寛容、慈悲、親切、同情、友情、尊敬などの親和的な情念は好ましく、共感できる。
利己的情念(自分自身の運不運に対する情念)は対応が難しい。幸運の場合、大きな幸運には他者の心からの共感は期待しにくい。突然の大出世は「周りの人間にとってはだいたいにおいておもしろくないものであり、妬みやそねみのせいで、成り上がった人の歓喜には心から共感できない」(p.128)。小さな幸運には、本人も大げさに喜ぶことはないし、したがって他者の共感を期待しやすい。不運の場合、小さな不運は共感を得られにくい。「ちょっと不愉快なことがあっただけですぐに苛立ち、料理人や給仕人がさほど重要でない仕事で粗相をしても機嫌を損ねる人」(p.310)、「田舎に行けば天気が悪いと文句を言い、旅行に行けば道が悪いと文句を言い、都会へ行けば遊び相手がいないとかどの興行も退屈だとか文句を言う人」(p.311)。「こういう人は、どのような理由があるにせよ、さほど共感を得られないと断言できる」(p.311)。これに対して、大きな不運には心からの共感を得られる。
以上のスミスの注意を頭の片隅に置いて、感情を表現していこうと思うようになった。
三つめは、利己的情念にブレーキをかけることの大切さである。「公正な観察者」だけに頼ることなく常に意識しようと思う。
四つめは、連帯社会を構築、存続するために「共感の輪」を積極的に広げていくことの必要性である。「ロールズとスミス(1)-連帯社会の哲学を求めて」で私は次のように書いた。「生活や仕事上で何か問題を抱えて困っている人びと、あるいは生活や仕事の状態をより良い状態に持っていきたいと願う人びとに支援の手を進んで差し伸べる。支え手と受け手が常に決まっているというわけではなく、ときには支え手と受け手の立場を変えながら、状況に応じてみんなで支え合う。これが、連帯する社会の姿だと考えたらどうだろうか」。支援の手を差し伸べる主体に着目して支援のタイプを自助、公助、共助そして他助に分けた。その結節点として都道府県に設置された労働者福祉協議会(労福協)へ多大なる期待を寄せていることも述べた。いくつかの労福協は他助に乗り出し、また他助を行うNPOとも連携し、かつ公助の組み換え(政策提言)も行っている。支援は共助の組織のメンバーに限られず、あまねく市民をも対象にしている。他助や公助の組み換えを行なっていることを広く宣伝していけば、多くの市民の感謝を呼び起こすことになり、共感の輪を広げることができよう。そうすることによって連帯社会がより身近なものになっていくのではないか。